赤眉の乱とは?王莽政権崩壊と後漢成立までの経緯を解説

紀元1世紀の中国で起きた「赤眉の乱」は、新王朝を打ち立てた王莽の政権を滅亡に追い込んだ、歴史的に非常に重要な農民反乱です。この激動は、後漢という新たな時代の幕開けを告げる転換点となりました。この記事では、赤眉の乱の勃発背景や主要な登場人物、乱の展開、そして後漢成立への道筋を専門的かつ分かりやすく解説します。中国史や世界史を学ぶ方、歴史ファン必読の内容です。

04) 王莽政権の滅亡

王莽政権の滅亡は、中国史における重要な転換点です。なぜ王莽は滅び、赤眉の乱がその引き金となったのか?ここでは、王莽の新政権の特徴や崩壊の過程を詳しく見ていきましょう。

王莽の新政権と改革の矛盾

王莽は西暦8年に前漢を滅ぼし、新王朝「新」を建国しました。
彼は儒教的理想をもとに土地制度や貨幣制度を改革し、貧富の格差是正や中央集権化を進めました。
しかし、これらの改革は急進的すぎて社会に混乱をもたらし、農民や豪族、商人など、あらゆる階層から反発を受けることになります。

特に土地の再分配や奴婢解放政策は、既得権益を持つ豪族層の強い反感を買いました。
また、度重なる天災や飢饉も人心の離反を加速させ、王莽政権の基盤は急速に揺らいでいきました。
これが赤眉の乱など各地での反乱勃発の土壌となったのです。

民衆の不満が爆発する中、王莽の求心力は著しく低下しました。
このような状況下で、各地の叛乱勢力が次々と蜂起し、ついに王莽政権の滅亡が現実味を帯びていきました。

女性指導者・呂母の乱と赤眉軍の台頭

赤眉の乱の前兆として特筆すべきは、琅邪郡出身の女性・呂母による反乱です。
彼女は息子の仇討ちをきっかけに農民たちを率い、各地の不満分子と合流しながら勢力を拡大しました。
この呂母の乱が、後に赤眉軍の結成へとつながっていきます。

赤眉軍は、眉を赤く染めて戦ったことからその名がつきました。
リーダーの一人・樊崇(はんすう)らが中心となり、泰山郡出身の劉盆子(りゅうぼんし)を皇帝に担ぎ上げて進軍。
この動きは王莽政権に対する農民層の不満がいかに大きかったかを物語っています。

やがて赤眉軍は、山東から西へと進撃し、長安を目指す大規模な武装蜂起へと発展しました。
こうして赤眉の乱は本格的な革命運動として、中国全土を揺るがす存在となったのです。

赤眉の乱の勃発と王莽政権の崩壊

赤眉の乱が勃発したのは、王莽の新政権が最も脆弱になった時期でした。
赤眉軍は勢いよく進軍し、23年には長安に迫ります。
王莽側は抵抗しますが、軍の士気は低く、多くの豪族や役人が離反しました。

ついに赤眉軍は長安に突入し、王莽は宮中で殺害されました。
王朝の終焉に伴い、新の年号は途絶え、混乱の時代が本格化します。
この時、赤眉軍は略奪や破壊行為も行い、長安の都市機能は壊滅的な打撃を受けました。

王莽の死とともに赤眉軍は、一時的に中国の覇権を握りますが、内部対立や統治能力の欠如から長期政権には至りませんでした。
これが後漢成立へとつながる、中国史を大きく動かす出来事となったのです。

叛乱と群雄割拠の時代

赤眉の乱の勃発をきっかけに、中国は群雄割拠の混乱期へと突入します。各地で自立を図る勢力が現れ、漢王朝の復興を目指す動きも活発化しました。

上将軍・隗囂と西方反乱

赤眉の乱と並行して、西方の天水地方では上将軍・隗囂(かいぎょう)が挙兵しました。
彼は河西回廊を押さえ、蜀(四川地方)や西域との連携を模索しながら、新政権への抵抗を強めていきます。
隗囂の勢力には多くの豪族や軍閥が集まり、独自の年号「復漢」を称して漢王朝の再興を掲げました。

この地域は地理的に長安から隔絶しており、独立政権を築くのに適していました。
隗囂は後に蜀王・公孫述と連携するなど、複雑な政権間抗争の中で存在感を示します。
一方で、彼の後漢への合流を巡る動きが後世の歴史認識にも影響を与えました。

隗囂の反乱は、赤眉の乱と連動する形で新王朝崩壊の一因となり、後漢の統一まで長く地域政権が割拠する要因となったのです。

蜀王・公孫述の自立と成家の成立

四川地方では、公孫述(こうそんじゅつ)が独自に政権を樹立しました。
彼は成都を拠点に「成家」を建国し、皇帝を自称。
この地はもともと秦・漢から遠く離れた地域であり、地理的特性から外部勢力の侵攻を防ぎやすかったのです。

公孫述は12年間にわたり独立政権を維持し、北の隗囂と連携しつつ、後漢と対立しました。
このような地方政権の自立は、赤眉の乱による中央権力の弱体化がもたらした現象とも言えます。
その後、後漢の光武帝が勢力を拡大し、公孫述の成家は最終的に滅ぼされました。

蜀王・公孫述の自立は、赤眉の乱が生んだ群雄割拠の象徴的な出来事です。
地方政権の興亡は、この時代のダイナミズムを物語っています。

南陽の劉氏と後漢再興運動

南陽地方では、漢王朝の末裔である劉氏一族が挙兵しました。
舂陵(しょうりょう)の劉氏は南陽を拠点に、各地の劉姓豪族や名士を糾合し、漢王朝の再興を目指します。
この流れが後の後漢光武帝・劉秀の即位へとつながります。

南陽は製鉄や農業が盛んで、豊かな経済基盤を持っていました。
また、前漢時代からの流刑者や移民が多く、その多様な人材が漢復興運動の原動力となりました。
劉氏一族の挙兵は、赤眉の乱によって空白となった中央権力を埋める重要な動きでした。

南陽の劉氏の活動は、後漢の成立に欠かせない要素であり、赤眉の乱が生み出した新しい時代の胎動でもありました。

光武帝の即位と新時代の幕開け

赤眉の乱による混乱の中から、ついに後漢王朝が誕生します。光武帝・劉秀の登場は、中国史に新たなページを刻みました。

更始帝と劉盆子―二人の「皇帝」

赤眉軍は劉盆子を皇帝に擁立し、「建世」という年号を使用しました。
一方、南陽の劉氏一族からは劉玄が「更始帝」として推戴され、異なる勢力が同時に皇帝を自称する混迷の時代となりました。
この二重政権状態は、後漢成立までの大きな障害となります。

赤眉軍の劉盆子はリーダーシップに欠けており、実際の統治力は低かったと言われています。
対して更始帝・劉玄も豪族勢力との調整に苦しみ、短期間で政権が崩壊。
このような状況下、光武帝・劉秀が頭角を現していきました。

異なる「皇帝」たちの混乱は、赤眉の乱が引き起こした歴史のダイナミズムを如実に示しています。

光武帝・劉秀の即位と告天の儀礼

劉秀は南陽劉氏の出身で、赤眉の乱など各地の農民反乱を鎮圧しながら勢力を拡大しました。
彼は最終的に自ら皇帝に即位し、「建武」という新たな年号を制定します。
即位にあたっては、天に即位を告げる「告天の儀礼」を執り行い、正統性をアピールしました。

この時代、皇帝の権威は血統だけでなく、儒教的な儀礼や天命の正当性によって支えられていました。
光武帝はこうした儀式を重視し、後漢王朝の正統性を広く内外に示したのです。
これにより中国は再び統一への道を歩み始めました。

光武帝の即位は、赤眉の乱による混乱を乗り越えた新時代の幕開けでした。
後漢はこの後、約200年の長きに渡る安定を実現します。

赤眉軍の最期と後漢の安定化

赤眉軍は一時的に中国の覇権を握ったものの、内部対立や統治能力の限界から次第に力を失っていきます。
光武帝の軍勢に圧倒され、最終的に降伏。
指導者の樊崇らは赦免されるものの、赤眉軍は歴史の表舞台から姿を消しました。

後漢成立後は、赤眉の乱のような大規模農民反乱はしばらく収束し、中央集権体制の再構築と経済復興が進みました。
しかし、赤眉の乱が示した社会の矛盾は、後世にも繰り返されるテーマとなります。
中国史において、赤眉の乱は「民衆の力」と「王朝の正統性」のせめぎ合いを象徴する事件となったのです。

赤眉軍の終焉は、後漢王朝の本格的な安定期の到来を意味していました。

まとめ

赤眉の乱は、王莽の新政権を滅亡させ、後漢王朝成立への導火線となった中国史屈指の大事件です。この出来事を通じて、民衆の力、政治改革の難しさ、そして正統性を巡る争いが浮き彫りになりました。赤眉の乱の背景や展開を知ることで、後漢の安定やその後の三国志時代への流れをより深く理解できます。歴史は繰り返す――赤眉の乱が現代に投げかける教訓も、私たちが考えるべき大切なテーマではないでしょうか。